◆平成 〜渥美國泰の略年譜〜

昭和八年 1933年 誕生 一月一日、東京市四谷区三光町一番地にて渥美通夫・龍子の長男として生まれる。
昭和十四年 1939年 六歳 小児喘息のため鎌倉大町に転地し、鎌倉市第一小学校に入学。
昭和十五年 1940年 七歳 東京に戻り、東京市四谷第五小学校二年生に編入。「雨上がり やつ手の上に かたつむり」の俳句で特選になる。
昭和十六年 1941年 八歳 太平洋戦争勃発 
昭和十八年 1943年 十歳 小学五年生の時、海洋少年団員となり学校を代表して、雨中の神宮外苑に学徒動員一回生を東条英機首相とともに送る。後の大河ドラマ「山河燃ゆ」にて東条英機役を演じた際の参考となる。 
昭和十九年 1944年 十一歳 戦火、帝都空襲も激しくなり、親元を離れ、山梨県南巨摩郡身延町に集団疎開させられる。 
昭和二十年 1945年 十二歳 中学受験のため帰京し、東京都立九段中学校へ入学。五月二十五日の大空襲で一晩中猛火の中をさまよい、防火用水に飛び込み九死に一生を得る。焼き出されてやむなく鎌倉に疎開し、鎌倉中学校に転校。八月十五日、秋葉原の駅頭で買い出し芋の大荷物を背負いながら、終戦の詔勅を聞く。
昭和二十一年 1946年 十三歳 軍国少年は早くも演劇少年に変身し、鎌倉文士の伜(せがれ)たちと、有島武郎作「ども又の死」を演じる。
昭和二十二年 1947年 十四歳 フランスの近代詩劇「チチアンの死」を演じ、後の宝塚スター常盤みどりとなる女子学生と競演する。
昭和二十三年 1948年 十五歳 東京都立九段高校に復学し、文化祭で武者小路実篤作「二十八歳の耶蘇」を演じ、演劇部にスカウトされ、伝統ある演劇部の再興の士となる。 
昭和二十四年 1949年 十六歳 加藤道夫作「エピソード」により東京都高校演劇コンクールにて毎日新聞賞を受く。鎌倉より新宿区番衆町三十一番地に新居転入す。 
昭和二十五年 1950年 十七歳 飯沢匡作「崑崙山の人々」にて同演劇コンクール、最高賞の教育委員会賞を獲得し、早川書房の演劇雑誌「悲劇喜劇」に「演出・演技ノート」を執筆して掲載される。この時から生涯の師として飯沢匡氏の薫陶を受けることとなる。
昭和二十六年 1951年 十八歳 劇団俳優座の俳優座養成所に3期生として入所し、三年間、青山杉作、千田是也、田中千禾夫各氏の懇切な指導を受ける。
昭和二十七年 1953年 二十歳 卒業公演「ステージ・ドア」の映画会社の老社長役で認められ、青山杉作氏から俳優座劇場開場記念公演「森は生きている」の一月の老人の大役を与えられる。俳優座スタジオ劇団新人会を結成。
昭和二十九年 1954年 二十一歳 先の、俳優座劇場開場記念公演マルシャーク作・青山杉作演出「森は生きている」で初舞台を踏み、真船豊作・千田是也演出の「赤いランプ」で甘粕大尉の役に抜擢される。以降五年間、新人会において千田氏の演出によるレッシング・シラー作などの近代劇、サルトル・プレヒト作などの現代西欧の諸作品に出演する。レッシングの「ミンナ・フォン・バルンフェルム」では芸術祭奨励賞を受けるなどし、この間多くのラジオドラマやテレビの実験放送に出演。職業俳優としての一歩を踏み出す。
昭和三十一年 1956年 二十三歳 八月二十六日に福永豊海・朝香の長女、サヨ子と結婚する。
昭和三十四年 1959年 二十六歳 岸田演劇賞を受賞した田中千禾夫作・演出「マリアの首」の上演を最後に新人会は三つに分裂して、五年間の栄光ある歴史を閉じて解散する。
昭和三十五年 1960年 二十七歳 世田谷区烏山町に新居移転す。回りにはかやぶきの農家もあり、敷地は元は竹林であった。その頃から、映画・テレビ ・ラジオ・吹き替え声優等の仕事も忙しくなり、精力的に活動する。
昭和四十年 1965年 三十二歳 千田是也氏の推薦により、日中友好演劇訪中団の一員に選ばれ、杉村春子先生の相手役に任じられ、日中国交回復以前の文化大革命前年の中国各地を約半年間に渡り公演する。その地において周恩来・老舎・江青女史等々、歴史上の人物との接触や、有名画家である傅抱石氏との運命的な出会いを果たす。
帰国後に福田恒存氏の率いる現代演劇協会・劇団雲に参加する。
昭和五十一年 1976年 四十三歳 多くのシェークスピア作品の上演をはじめとして、数々の話題作を残し劇団雲は解散する。演劇集団・円の創立メンバーとして主宰者になり、株式会社・円企画の代表取締役となる。
昭和五十四年 1979年 四十六歳 円・円企画の代表を退任し、株式会社・アクト青山を設立。アクト青山ドラマティックスクールを設立し、後進の指導育成に励む。 
昭和五十九年 1984年 五十一歳 NHK大河ドラマ「山河燃ゆ」での東条英機役で好評を博す。
昭和六十年 1985年 五十二歳 放送大学教養学部で全科履修生として入学、「人間の探求」を専攻する。妻サヨ子がクモ膜下出血により二十三日間意識不明状態に陥るも、無事生還する。その後、江戸・明治期に民間書画の研究蒐集に励み、次々と著作を著述する。


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