長楽斎・渥美國泰の由来

長楽斎・渥美國泰は日本の江戸時代の最も文化の豊かだった文化・文政・天保期(1804~1843)の「唐様」と呼ばれる書や「南画」といわれるさまざまの 放逸で個性的な画を蒐集し、俳優業の傍らその研究のために晩年のほとんどを費やしました。


渥美國泰の長楽斎という雅号は、末永く生涯に渉って書画芸術を楽しみたいという願望からつ けられたもので、今から十年程前、長楽斎が亀田鵬斎という儒者の「酔芸」という書に魅せられるという衝撃的、かつ運命的な出会いをしたことからはじまりまったというます。その後長楽斎は、この魅力的な人物、亀田鵬斎のもとに集まった当代の高い教養と才能を持った江戸後期の文人達、酒井抱一、谷文晁、大田南畝こと蜀山人、 大窪詩仏等々、そしてまた文晁門下、門外の画家達の作品を精力的に蒐集して修復・保存し、後の世に遺すべく多くの方々の協力を得ながら、尽力したのでありました。


江戸の静寂を想う・・・

広漠とした関東の野にあって、美しい風光の江戸は、空気も澄み渡り、電力とはまっ たく無縁のすべての物音は、まさに都市の透き通る静寂の音そのものであった。喉自 慢の行商人の売り声は透き通って、季節の移ろいや年中行事の到来を知らせ、過ぎ行 く時を報じる鐘の音は八百八町の町々に響き渡った。武士の家では観世、宝生、金春、 金剛の四座の謡、町屋では音曲を習い、志賀山や藤間は互いにその美を競い合った。 幼い日には寺子屋で素読を受け、長じては草子の絵解きの物語を得意げに語って聞か せ、商家では大福帳を読み上げて収支を合わせ、寺院では坊主が説教で善男善女に随 喜の涙を流させたに違いない。このような環境の中で育ち、教養や生活環境を身に付 けた江戸の人々は、歌舞伎の荒事や寄席の講釈を楽しみ、毎年新たに綴られる「暫」 のつらねに耳を傾け、張扇の小気味よい調子に聞き惚れ、また博ろく交わりを好んだ この時代の人々のこととて、書画会や尚歯会をはじめとして、詩会や俳諧の会、見立 て遊びや大酒飲み大会等々、さまざまの会が昼夜に渡って盛んに行われ、人々の文化 生活を豊かなものにしたと思われる。


この趣向に富んだ人々が愛した民間にあった江戸の書画は、滅び行くこの時代を象徴 するかのように、ことのほか華奢で、小粋で、慎ましく、従って当然その痛みも激し く、今やその多くが紙屑同然になり、また床を飾るという習慣を失った現代の生活の 中では、いち早く不必要なものとして忘れられ、葬り去られてしまっているのである。 あっという間の僅か百五十年の歳月であった。またもや、あの浮世絵や根付のときと 同様に、よき状態でこの世に伝わったものはことごとく心ある西洋の人々に浚われて しまいつつあるのだ。日本人は国宝や重文といったものには目を光らすが、庶民の中 にあったこれらの書画は、余りにも身近なものであったがゆえに、その価値に気がつ かず、つい少し前まで、お爺ちゃんやお婆ちゃんが、季節季節に飾って大事にしてい たこれらのものこそ、いまや愛おしんで大切にしなければならないのである。従って 長楽斎は、「江戸時代こそ日本人の心のふるさと」を標榜して、その救済のために孤独なアート・トラスト、美術救済人として自らを任じ、その保存、補修のた めに、こうして日夜孤軍奮闘しているのである。


長楽斎謹拝
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